2020/8/5

夢という名の風船

 

 

桃山学院教育大学 栫井大輔先生執筆コラム

 

 

夢という名の風船

 「子どもの頃,たくさん持っていた『夢』という名の風船を,人は大きくなるにつれて一つずつ手放していくんや。」

 

 高校時代,数学のN先生の言葉です。学年集会で話されていましたが,「その通りだよなぁ。」と感心したことを今でも覚えています。

 

 影響をすぐ受ける子どもだった私の手には,夢という名の風船の紐がたくさんありました。宇宙飛行士,財閥の社長,無人島を所有して……,その時々で影響を受けた人やものの数だけ夢があり,大人になることが楽しみでした。

 

 「ぼくの将来の夢はプロ野球選手か考古学者になりたいです。」

 

 小学校の卒業文集に書いた夢です。プロ野球選手の夢の風船は,中学校2年生の時に手放しました。小学校3年生から始めた野球ですが,長いことやると自分の実力がよくわかりますよね。上には上がいます。そんな人と自分を比べると,「俺じゃ無理だよなぁ……。」とあきらめます。誰からも「あきらめなさい。」と言われていないのに……。

 

 N先生の話を聞いているとき,自分の手には考古学者の風船の紐しかありませんでした。N先生の言う通り,たくさんの風船を手放してきました。だからこそ,この話が心に沁みたのだと思います。

 

 高校時代の目標だった「甲子園」も開会式直後の1回戦であっさり終わり,考古学者に向けての受験勉強が始まりました。考古学者の風船は,絶対に手放さないと心に決めて。

 

 大学受験前日,下見のために志望校へ。門をくぐった瞬間,学ランの第二ボタンが「カチン」と音を立てて落ちました。ボタンの金具が折れたのです。帰りに門を通ったら,突然,鼻血が出てきました。これらの現象は,吉なのか凶なのか……。

 

 入試は簡単でした。夜から出た熱は朝になるとさらに高くなり,試験会場の室温の高さとも相まって,体も頭もふわっふわっしていました。全く難しさを感じず,夢見心地のまま試験を終えました。結果は吉なのか凶なのか……。

 

 凶でした。落ちました。落ちているのにこんなことを言うのも変ですが,センター試験を失敗したことで,志望校のランクを1つ下げていました。ですから,その大学は入学できるつもりでいました。年子という家庭の事情もあり,私学は絶対にダメという親からの要望でした。滑り止めで受けていた大学は大阪の教育大学。全く考古学と関係ありません。高校野球を終えてから,寝ているか勉強しているかの生活でしたから,もう一度受験勉強をする根気は残っていませんでした。

 

 

 考古学者の風船の紐が,私の手からするりと抜けていきました。手には何の風船のないまま,宮崎から大阪に行くことになりました。

 

 

 

 

 

 

運命の二つの言葉

 大阪に来たものの,宮崎と大阪の文化は外国に来たのかと思うほど異なっていました。また,当時の宮崎は知名度が低く,

 

「自分,どこ出身なん?」

「宮崎です。」

「それで東北弁なんや!」

「それ宮城やん!(と,当時はつっこむことすらできず……)」

 

という会話を度々しました。今でも九州訛りが抜けませんが,当時は訛り100%でしたので,同じ日本なのに会話に苦労しました。(宮崎にはツッコミ文化はありません。会話の途中でボケられても,初めのころは全て受け入れていました。ツッコミ1つ入れるのにも苦労しました。)

 

大阪という不思議な街でドキドキしながらの生活の中,考古学者の夢を諦められない自分がいました。小さいころからたくさんの夢という名の風船を持ってましたが,教師という風船を持ったことは一度もありませんでした。小学校6年生の担任はセクハラで途中からいなくなり,卒業式は教頭が担任でした。中学校は学年崩壊で,ワルに諂い,真面目な生徒にだけ権威をふるう教員を軽蔑していました。高校で初めて尊敬できる教師に出会いましたが(先のN先生ではなく,「みとっさん」と呼んでいた国語の先生です。学校で最年長の先生でしたが,一年中ノーネクタイ・ノーソックスで,どの先生よりも背筋が凛と伸びて悠々と歩いていました。),教師になりたいとは思いませんでした。教師という職業に魅力を感じたことがなかったのに,教員養成の大学に行ったので退屈になります。考古学について学べる大学への編入を模索しながら大学生活の1年目は終わります。

 

「あんた,オーストラリアに行かん?」

 

母から電話があったのは,大学1回生の10月頃でした。英会話教室をやっている母の友人が,母にワーキング・ホリデーの話をしたようです。大学に入り,アメフトばかりやっていた私を部活から辞めさせようという母の計画でした。ずっと野球をしてきた私にとって,アメフトは全く違うスポーツでした。しかし,部活に明け暮れる日々という点では同じで,このまま大学が終わることに疑問を感じていたのは事実でした。そこで,その話に乗っかることにし,大学を1年間休学し,オーストラリアに行くことを決めました。

 

 オーストラリアでは,半年間シドニーで生活しました。ジャパニーズレストランでウェイターをやったり,ヘンリーとクリスティという現地の子どものベビーシッターをやったりしながら英会話の勉強をしました。通常ならカルチャーショックがあるのでしょうが,宮崎から大阪に来た時の方が遥かに大きなカルチャーショックでしたので,全く苦労せずに生活できました。

 

 ですから,シドニーという都会にいると大阪にいるのと変わらないと思い,オーストラリアを旅しながら農場で働くことにしました。西オーストラリア州とタスマニア州以外はすべて訪れ,各州の農場に1週間から1か月ほど滞在しながら旅をしました。

 

 ある農場のオーナーは元教師でした。奥さんは現役教師でした。ということもあり,急遽日本語アシスタント教師として奥さんが勤務する中学校で日本語を教えたり,日本の文化を紹介したりすることになりました。当時は教育実習が初めて教壇に立つ機会になるのですが,私はオーストラリアの中学校が初めて教壇に立つ機会となりました。今でも様々な学校で飛び込み授業をしますが,「(オーストラリアで初めて教壇に立った)あんときよりまし!」と思うことができます。運命のいたずらなのか,教育大学,教壇へ立つと,人生は私の意志と無関係に教師への道に流れていきました。

 

 そして,運命の時を迎えます。教育実習です。小学校に教育実習に行きました。全く小学校の教師になるつもりはありませんでしたから,正直いやいやで教育実習を迎えました。もしも教師になるとしても,なるなら高校教師かなぁ,と何となくですが思っていました。「みとっさん」の影響ですね。教師になるなら,あんな先生になりたいと。ところが運命のいたずらで二つの言葉に出会い,小学校教師を目指すことになります。

 

全く小学校教師になるつもりはありませんでしたが,子どもと遊ぶのは好きでした。ですから,子どもたちとドッジボールをすることだけは頑張っていました。1週間ほど経ったある休み時間,いつものようにドッジボールをしていた時に高いボールが飛んできました。ジャンプして捕った瞬間,Tさんという女の子が,フランシスコ=ザビエルの肖像画のような姿で言いました。

 

「ドッジボールの神様やぁ!!」

 

私にはTさんが天使に見えましたけどね。本当に私を神と思っているような感じで,目をキラキラさせて本気で言うんです。

「うわぁ,こんなこと本気で言える子どもたちといつも一緒に過ごせたら,人生楽しいやろうな!」(結局16年間小学校教師をしましたが,この思いは正解でした。)

 

この瞬間,私は小学校の教師という新たな風船を見つけました。と,このまま教育実習が終わればいい思い出なのですが,教育はそう易しいものではありません。

 実習があと1週間で終わるという時期の休み時間。チャイムが鳴ったので,子どもたちと走りながら教室に向かっていました。

 

「栫井先生,最後の授業何するん?」

「理科やで。」

「やったぁ,理科や!」

 

としゃべりながら走っていたのですが,その時F君がボソッと言ったのです。

 

「栫井先生おもろいねんけど,授業めちゃくちゃやからなぁ。

 

授業めちゃくちゃやからなぁ。授業めちゃくちゃやからなぁ。授業めちゃくちゃやからなぁ。授業めちゃくちゃやからなぁ。……』

 

とこの言葉がグサッと胸に突き刺さり,頭の中で響きました。確かに初授業は30分で止められ,体育はもめにもめて説教タイムに。個別塾の講師や家庭教師のバイトで,ある程度結果を残せていたことが,授業に対する誠実さを失わせていたのだと思います。最後の授業は,それまでの授業とは異なり,教材研究を本気でしました。理科室に閉じこもり,何度も授業の練習をしました。

 

「先生,今日の授業よかったでぇ!!」

 

理科の授業が終わった瞬間,理科室の固定された机の隙間を上手にすり抜けながら,子どもたちが私のところに駆け寄ってきました。ニッコニコの笑顔が私の周りに溢れました。

 

「もっと早くからこんな授業をしてあげたかったなぁ!」

 

この瞬間から「授業づくり」の世界に足を踏み入れました。(授業づくりは奥が深く,この世界の冒険は今も続いています。)

 

 教育実習後,小学校の教師という新たな風船の紐をギュッと握りしめるようになりました。それも,ただ教員採用試験に受かって教師になるというのではなく,「日本一授業のうまい小学校教師」になりたい。

 

 

 こうして,ずっと持っていた『考古学者の風船』を完全に手放し,新たな「小学校教師の風船」をつかんで,教育の世界に飛んでいくことになりました。

 

 

 

 

 

 


後編に続きます。 執筆:栫井大輔先生

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