2020/8/15

夢という名の風船


桃山学院教育大学 栫井大輔先生

このコラムは後編です。 前編はこちら

闇に突入

「うわぁ,こんなこと本気で言える子どもたちといつも一緒に過ごせたら,人生楽しいやろうな!」


と、大学生の頃に思ったことは,教師になって事実だったと確認することができました。もちろん,子ども相手のことですから怒ることも落胆することも多々ありました。しかし,振り返ってみれば,過去は美化されるとしても,胸を張って「楽しかった」と言えます。


 このように書くと,教師を目指してから順調に教師になったのだろうな,と思うかもしれませんが,そうではありません。まず,大学4年生の時に教員採用試験を受けるのが通常ですが,受けませんでした。小学校教師を目指し始めたことは事実ですが,考古学者に限らず「学者」の夢をあきらめる1つの区切りをしっかりつけたいと考えたからです。そこで,大学院を受験しました。大学院の受験と教員採用試験の両方を受けることも可能ですが,それは敢えてしませんでした。中途半端なことをしたくなかったらです。もしも大学院が不合格なら,学者の道はスパッとあきらめ,小学校教員になるために勉強をしながらフリーターをしようと決意しました。


 そして,見事にフリーターになりました。フリーターの生活は「フリー」の言葉とは真逆で,生活のためだけに働くという人生で一番つらい時期となりました。仕事の内容はたこやきの兄ちゃんエアコンケーキの製造,塾の講師です。弟が就職したこともあり,実家からは「宮崎に戻ってこい」の圧力がありました。バイト先でも「大卒で,こんなところにおったらアカン」と説教をよくされました。何年もフリーターをすることは無理だということを悟り,仕事をしていないときは大阪府立図書館に籠り,教員採用試験合格に向けて勉強をしました。このとき,試験勉強だけでなく,優れた指導法についても勉強したことが教師になってから役立つことになります。


 教員採用試験の結果ですが不合格でした。大学時代の大阪府の小学校教員の採用人数は150人ほどでしたが,1年経って受けた試験では50人になっていました。不合格者は自分の順位が分かるのですが,120位くらいでした。フリーターの生活から抜け出したいと強く思っていましたので「大学の時に受けとけば合格してたやん……」と,初めて人生の選択に後悔する自分がいました。(不合格通知をもらった翌日から,原付バイクで心の師匠「坂本龍馬」に会いに高知県桂浜に行き,前向きな自分に戻れました


 この後も,自分の思ったように人生は進みません。教員採用数が一番少ない頃でしたので,講師経験がないと合格できる見込みがなさそうでした。そこで,新年度の4月から講師になることを目指しましたが,それも叶いませんでした。


 今,振り返ると,このの人生は「お先真っ暗」でした。小学校の教師になるという夢があったので,その光に向かって進みましたが,光は見えども歩む道が見えませんでした。当時の自分を支えてくれたのは,Mr.Childrenの「終わりなき旅」でした。今でも,この曲を聴くと当時を思い出します。

芽が出た小学校時代

「4年生の担任をしてくれませんか。」

フリーター2年目に突入した6月に,突然ある教育委員会から電話がありました。6月に学級担任の依頼とは,どんな意味か分かりますか。学級崩壊です。今でもはっきり覚えていますが,1999年6月10日に担任となりました。念願の教壇に立つことになります。


 クラスはドラマにすれば一日で3話作れるほど,様々な事件や出来事がありました。しかし,私自身は本当に楽しかったです。フリーターの頃の生活に比べれば,生きている実感があったからです。ここからです,人生が好転したのは。それまで思うようにならなかったのが嘘のように,ドミノ倒しのように目指すに進んでいきました。クラスは学期が進むごとに落ち着き,3学期には普通のクラスに戻りました。目が釣りあがっていた子どもが穏やかな表情になりました。教員採用試験も,ほとんど受験勉強はできませんでしたが合格しました。フリーターの時の経験が人生の肥料となり,教師の芽が育ちました。


 ここから15年間は小学校教員を満喫しました。「日本一授業のうまい教師」になれませんでしたが,授業づくりはとことんこだわりました。給料も授業づくりのためにつぎ込みました。書籍を買ったり,全国の勉強会に出かけたりしました。どのくらいつぎ込んだかは,結婚するの妻との会話でわかると思います。


「いくら貯金あるん?」

「5万」

それな,貯金言わんと『残金』言うねん!!」


(こんな私でも,結婚式もでき,マイホームも手に入れることができたのは妻のおかげです。家計の実権を妻が持っていることや,今でもお小遣い制なのに文句ありません!)


 教師10年目ぐらいの時に,あまりにも「いい授業は何か」と突き詰めていったため,自分の中で「いい授業」が分からなくなりました。「結局,人の好みでは?」と思ったからです。このような思いを校長先生に話すと,大学院に行くことを勧められました。


この校長先生は常々

「20代の仕事が,30代の仕事を決める。30代の仕事が,40代の仕事を決める。だから,今できることをしっかりやらなアカンで!」

と言われていました。この校長先生のおかげで,昼間は小学校の先生,夜は大学院の学生という,人生で一番頑張った時期を迎えることになります。(校長先生のお言葉のように,この30代の時の頑張りが,40代の仕事を決めました。)


 小学校教員になって16年目,転機が訪れます。それまで10年間勤務していた学校から転勤したのですが,初めて担任ではなかったのです。教務(教頭先生の下で学校全体の運営のお手伝いをする役割)と初任者教員指導の立場となりました。いわゆるミドルリーダーとして学校に関わることになりました。40代になると,人でどうこうするというよりも,縁の下の力持ち的存在でサポートすることに喜びを感じる自分がいました。ですから,その学校での立場には何の不満もありませんでした。ただ,授業や子どもから離れたこと対して,心のどこかでモヤモヤしているものがあるの事実でした。

学者の風船が手の先に

 周りの教員からは,そのうち管理職や教育委員会に行くのだろうと思われていました。そのようなつもりは全くないのにも関わらず……。当時,学級崩壊のクラスを担任した時に音楽専科として共に勤務したベテラン教師と職員室の席が隣だったのですが,「管理職にならなあかんよ」とよく説教されていました。初めのころは「いやいや,そんなタイプじゃないですよ。」と笑顔で返答していたのですが,やがてそのような軽い返答では済まないくらいに押してくるようになってきました。「ならないのと,なれないのは別」「なるべき人がなって学校が成り立つ」など,ことあるごとに聞いていると「ならなアカンのかなぁ」と思ってくるんですね。しかし,「管理職がしたくて教師になったんちゃうし,子どもの前で授業したくて教師になったのになぁ」の気持ちもありました。教員を貫くのか,管理職になるのかの2択を迫られる日が刻々と近づいてきている感じでした。


「栫井さん,大学の教員になるつもりはない?」

ある研究会でご一緒したことのある先生から,突然電話がかかってきました。突然,大学教員の道という選択肢が現れたのです。「授業ができる!」の思で,迷わず大学教員の道を選びました。


 と,一度はあきらめた「学者の風船」が突然目の前に現れました。ですから,その風船の紐をガッと掴んで教育学者になりました。考古学者の風船は手放しましたが,その後小学校教師の風船を持って旅をするうちに,再び学者の風船に出会えた感じです。1つ言えることは,考古学者の風船を手放してからも,小学校の教師という風船や日本一授業のうまい教師になりたいという風船を追い求めた結果,学者の風船に辿りつくことができました。夢を一度手放しても,自分が成長すれば,再び掴みなおせるということです。

人生無駄なし


「指導は,点ではなく線」

と学生に教えている日々を送っています。同様に,人生もいろいろな出来事という点があります。その点は,バラバラでつながりがないように感じますが,振り返ってみると,その点はつながり,人生という線になります。そう考えると,「人生において無駄なことはないなぁ」とつくづく思います。


 ただ,線がつながる上でも法則はあるようです。考古学者と教員は一見別のように思いますが,自分の中ではつながりがあります。それは「人が好き」ということです。大学3年生の時に気づいたのですが,は「人が好き」です。考古学の何が好きかと言えば,当時の人の生活を想像できるということです。子どもの何が好きなのかといえば,偽りのない反応を見せてくれる人ということです。教育の何が好きかと言えば,人の人生に携わることができるということです。私は「人が好き」なので,人に関連することに携わればストレスなく楽しむことができます。ですから,なんだかんだとありましたが,自分の好きなことに関われてきたのが今につながっているのだと思います。このコラムも教え子からの依頼ということと「書くことが好き」ということで引き受けましたが,今後の人生にどのようにつながっていくのかと思うとワクワクしますね。


 現在は,50代の仕事のために学生指導と研究に力を入れている毎日です。やりたいこと(陶芸,キャンプをしながら日本一周,茶道三昧の日々など)はたくさんありますが,それは老後の楽しみとして,今はやるべきことに専念しています。


「あぁ,楽しかった!」

の一言を放って臨終を迎えるというゴールに向かって,教育学者の風船とともに人生の旅を続けたいと思います。